つげ義春「チーコ」より

つげ忠男の不運

つげ義春

 晶文社発行のつげ忠男作品集『きなこ屋のばあさん』に私は解説を書くとき、つげ忠男のデビュー作がどんな作品であったか思い出すことができなかた。つげ忠男をデビューさせたのは私であったから、当然第一作や試作など見て、その才能を認め出版社へ紹介したのか、三十年も前のことなのでまるで忘却の彼方であった。当時、大塚に住んでいた私の所へ原稿を見せに忠男がやって来たような気もしていたが、その記憶もあいまいであった。「ある彫像」という作品に衝撃を受けた覚えがあるので、それが第一作だったような印象として残っていた。しかし確認はできなかった。
 
『きなこ屋のばあさん』が出てほどなくして『ばく』でつげ忠男特集号が編まれた。そこに高野慎三氏の作成した「つげ忠男作品リスト」が掲載されていた。それを見ると忠男のデビュー作は「回転拳銃」昭和三十四年六月(迷路十号)となっていた。「ある彫像」は七作目であった。「回転拳銃」がデビュー作だったとは意外に思えた。つまらぬ作なのだ。私は忠男のデビュー作はもっと手応えのある作品だったような気がしていたので・・・・・・。だから才能を認めたのだと思う。なんだか腑に落ちない気がした。高野氏のリストが不完全なのかもしれない、そんなふうに思った。けれどもデビュー作を是非とも確かめる必要もないので、そのことはそれきりになった。
 
そして今度この文を書くにあたって、また忠男に関する話題を探すため、私は四・五日来貸本時代のことなど追想していた。忠男の作品リストをくり返し見たり、私自身のことから思い出の糸口でも掴めないかと、自分のリストも取り出して忠男との照合をしてみたりしていた。それで気がついたのは「回転拳銃」の掲載されている『迷路』十月号には、私は「手錠」という作品を載せていることだった。そこから消えかけていた記憶がいくらか蘇ってきて、忠男の第一作の原稿を見せられたときのことがようやくわかって来た。
 
『迷路』十号に私が「手錠」を描いた頃は、墨田区錦糸町に下宿をしていたときだった。そこへある日ひょっこり忠男があらわれた。その下宿へ私が越して来たのは昭和三十二年。忠男が訪ねて来たのは二年経過した三十四年のそのときが初めてだったと思う。忠男はマンガを描いてきたといって、新聞紙に包んできた原稿を取り出して見せた。私は一寸驚いた。いつの間に忠男がマンガを描くようになったのか、だいいち絵が描けるなどと思っていなかったので信じられない気持ちだった。私が家にいた時分は、時どき黒ベタを手伝わせたりしていたが、マンガを描くことなどおよそ興味がないようだったし、マンガのラクガキなどしているところも見たことがなかった。私が家を出る前後に忠男は中学校を卒業し、血液銀行に勤めるようになり、そのかたわらマンガを描いていたのだろう。私はその原稿を、つまり忠男の処女作を見て目を瞠った。うまいと思った。現在からみると絵は稚拙なのだが、ストーリーに心理的陰影があり、活劇物ばかりの当時の貸本マンガの水準を越えていた。
 
原稿は半分ほどまでペンがいれてあり、残りはエンピツの下書きのままだった。仕上げをする前に一度私に見て貰おうと持って来たものと思えるが、いつも寡黙な忠男は、マンガ家を志望しているようなことは言わない。
 
「こんなもの描いてみたんだけど・・・・・・」と、やや臆している様子。内心はマンガ家になる意気込みがあったのかもしれないが、少しもそんな気振りは見せない。丁度そのとき私は、『迷路』の〆切りが迫り、案が浮かばず苦心をしているところだった。
 
『この原稿オレにくれないか』
 
私は何か品物でももらうような調子で言った。
 
『いいよ、こんなんでいいのかな』
 
忠男はなんのためらいもみせず承諾した。その原稿が『迷路』十号に私の名前で発表した「手錠」だった。半分までペンをさしてあった残りの分は、忠男の下書きのままを私がペンでなぞっただけだった。忠男は急遽別の作にとりかかり、それが「回転拳銃」だった。
 
「回転拳銃」はトジコミ付録のような、本誌の半分の頁で八頁、実質四頁でしかない。頁数の制限、〆切も迫っていたせいか出来はよくなかった。記念すべきデビュー作としては見劣りするものだった。「手錠」が忠男の作であったことを私は忘れていなかったが、ふだんそれを思い起こすことはないので「手錠」が第一作であったことには思いいたらなかった。高野氏の手になるリストに間違いがなく「回転拳銃」以前に忠男の作品がないとすると、右の経緯は多分私が思い出したとうりであろう。忠男自身はそのことを忘れている筈はないと思えるので、確めてみればハッキリすると思えるのだが、私への気遣いでこれまで口にすることもなく明かさずにいてくれた忠男は、おそらく「う〜ん、そんなことあったかなァ、もう忘れたよ」と、とぼけるのではないかと思う。

つげ義春「チーコ」より

大塚へ私が転居したのは、それから半年ほどしてからだったと思う。大塚で忠男と一緒に仕事をしていた話をしてくれとの本誌の注文だが、それも殆んど忘れてしまっている。
 大塚へ移ったのは、Kという女と同棲するためで、癌研の裏の方に住んでいた。そういえば十年前に妻が癌研に入院したとき、ヨチヨチ歩きの息子をつれて、大塚の駅から癌研まで寂しい気持で何度か歩いたことがあった。その癌研の少し手前の路地裏のアパートに三畳の部屋をかりて、忠男と組んでマンガを描いたのだった。
 癌研の裏の方の部屋から歩いて十分ほど、その三畳の仕事場は、ケンカの絶えなかったK女と別居をするために借りたもので、その当時のことを描いたのが「チーコ」だった。別居をしたといってもK女は毎日押しかけて来て寝泊りするものだから、本宅の方が空家のようになり別居した意味がなかった。私は内向的でジクジクしているから、このK女をはじめ、いつも女にいじめられてきた。よほど女運が悪いとみえる。
 貧窮打開に忠男と組んで量産体制を敷くために利用したその三畳の部屋に実家(葛飾区青戸)から忠男が通ってくるようになったのは、三十五年の夏だったと覚えている。西陽の射す窓にはカーテンもなく、直射を遮るのに窓は閉め切り扇風機もなく、お茶一杯飲まず(そういえば忠男は弁当を持ってきていたような気がする)暑さにうだりながら、おとなしい忠男は黙黙と仕事をしていた。私との会話も殆んどなかった。私はK女との仲が険悪で、忠男と冗談ひとついえぬほど憔悴しきっていた。そんな状態であったから、自分のことは多少覚えていても、そのときの忠男のことは顧慮する余裕がなかったせいか何も覚えていない。
 忠男は私との共同制作に期待をかけてか会社も退職して来ていた。私としてはストーリー作りも忠男と合作できれば量産できると考えていたのだが、そんな相談もしなかった。頭の中はK女との悶着で混乱し、ストーリーを作るにも支障をきたしていた。ゴタゴタがあると仕事もできず「明日はこなくていいよ」と、忠男を休ませたりした。二・三日するとまた「明日はこなくていいよ」。四・五日すると「二、三日休んでいいよ」と、そんな工合だった。
 忠男と仕事をしたのは短編が一作と『忍者秘帖』全四巻のうち三巻までだった。私の唯一の大長編『忍者秘帖』が大愚作となったのは、忠男への給料支払いに追われ、じっくり構想を練る時間もなく、一日数枚描くと翌日描く分のストーリーを考えるといった工合で進めていたからで、翌日分のストーリーが出来なければ忠男に休んで貰った。休ませてばかりいるので二人分の収入にならない。三ヶ月ほどで行き詰まった。
 その時期忠男は、長井勝一氏の三洋社で短編を二作発表している。それは私に放り出されて以後の作品だったのか?、私は長井氏を紹介した覚えもないので、一人で売り込みに行ったのだろうか。作品リストを見ると、三十五年のその二作を最期に忠男の貸本時代は終わっている。あちこち売り込みに歩いて採用されず泣いていると、母が忠男の原稿を持って訪ねて来たこともあったりしたが、間もなく忠男は元の会社に戻っていると聞いた。そして私もK女と別れ、錦糸町の元の下宿へ戻った。
 それから五、六年を経て私は調布へ移った。その五、六年の間でも忠男に会ったのは数えるほどしかない。どんな生活をしていたのかまるで知らないでいた。音楽や文学をやっていたのはその時期だったのか。調布へ訪ねて来たのも一度きりだった。もうマンガをあきらめたのか再開したいような気配もみせなかった。それが四十三年に桜井昌一氏の東考社で「むし」をポコッと描いた。私に相談すれば『ガロ』を紹介したのに何故東考社へ持ち込んだのだろう。頼りない兄を信用できなかったのかもしれない。「むし」は、まだ駆け出しの池上遼一の単行本『白い液体』の巻末に付録のようにつけられ、表紙には名前もないという扱いをうけた。デビュー作を私に横取りされ、再起でまた不運な目に遇ったのだった。
 それから半年ほどして『ガロ』に「丘の上でビンセント・ヴァン・ゴッホは」が発表され本格的カンバックしたのは、当時ガロ編集長をしていた高野慎三氏の尽力によるものであった。私は一切関わっていなかった。
 四十四年から『ガロ』に精力的に描き出した忠男と交代するかのように休筆した私は、その時期新宿の十二社に一年間住んでいた。そこへ忠男が訪ねて来たのも一度きりだった。そのときもどんな話を交わしたか覚えていない。生活のことなど互いに一切喋んない方だし、だからその頃忠男に子供ができたことも私は知らないでいた。どんな変事があっても互いに報告することができないのは、相手に煩わしい思いをさせたくない配慮もあるだろうけど、忠男にすれば信頼できない兄に何を言っても効果のないのを知っているからだろう。
 忠男がマンガだけで生活できたのは『ガロ』の三年間位いだったように思う。四十七年の夏か秋だったか、『ガロ』の原稿料が遅れているというので私は借金を申し込まれ送金をしてやったことがある。それから間もなくして聞いたのは、金物屋の店員をしているということだった。ちょっと原稿料が遅れるだけですぐ転職せざるをえない家庭の事情があったようだ。
 こうしてだらだら書いていてもきりがないけれど、ふり返ってみると、私は忠男に何かと迷惑をかけても助力になることは一つもしていない。忠男のマンガ歴が不運であったのも、今にして思えばデビューのとき私によって決定されたことなのかもしれない。忠男のことを書こうとして殆んど思い出せないということも、自分に内向するばかりで他を顧みない私の偏狭な性格によるものなのだろう。それが忠男に波及しているとすると、私の存在そのものがつげ忠男の不運の元凶になっているように思えてならない。

(1988年2月)

北冬書房刊『つげ忠男読本』より全文掲載