つげ義春・むかし、

   むかし・・・・・・

 

 

つげ忠男

 

 

誰も使っていない余分の部屋がひとつある。
 普段めったに覗きもしないが、たまたま家にわたし一人きりで居て何も用事がない時など、そこいらをウロウロしついでに、ただなんとなく足を踏み入れてみたりすることもある。

 
別に何の変哲もない六畳程の洋間で、家具といえば、北側の壁の隅に古びた木製の机が収まっているだけの、まったくのがらんどうである。カーペットも敷いていない板張り床の隅々の、キチンとした直角が一目で見通せてしまう部屋というのは、なんだか引越し跡のようでやはり少し淋しい。ポツンとある机が、不用のものとして置き去りを喰らったような感じに目に映り、胸の奥で何かが幽かに揺れる。懐かしくもあり、うしろめたくもあり、その他にまだ何かありそうなのだが、深くは考えたくないといった複雑な思いが働き、わざとソッケなく視線を逸らす。
 しかし一歩部屋を出てしまえば、それはたちまち忘れてしまうことだが・・・・・・。机は三十数年前、兄が若木書房から漫画家としてのスタートを切って直ぐに、わざわざ大工に頼んで作って貰ったものであった。原稿料が入ったら必ずそうしようと計画していたに違いない。確かデザインは自分で考えたといっていたように記憶しているが。
 畳に直に座る小机から、椅子付きの広々とした特別注文の机へ。
 酷い貧乏暮らしの中で中学も卒業しないまま、長兄と共に働きに出て家計を支え、かたわら、コツコツと漫画を描き続けていた兄・義春がついにプロの仲間入りを果たした、それは証であったろう。
 単行本一冊一二八頁を描いて三万円。
 昭和三十年前後、そこいらの町工場の中卒者の初任給なんてせいぜい三千円か四千円の頃の三万円である。モノスゴイ収入を兄は得ることになったのだ。
 それを誰よりも喜んだのは実は母であったかも知れない。
 単純計算で、毎月は無理としても、二ヶ月に一本仕上げればそれでも一万五千円である。
 「長男の給料と合わせ、ウチもこれでやっと楽になる」
 シミジミ母はほっとしたのではなかろうか。事実、兄はほぼそのペースで順調に本を出していくことになる。
 「兄ちゃんの机に触るなよ、大事な商売道具なんだから・・・・・・」
 当時中学一年か二年になりかけたぐらいのわたしに、母はよくそういった。いわれるまでもなかった。それどころか、逆に母のその程度の認識を不満にさえ思った、なぜなら、兄にとって机は単なる商売道具以上の、もっと神聖なスゴイ物の筈なんだと、わたしはいかにも中学生らしい高揚した思いを、そのことに関して抱きつづけていたからである。
 とはいえ、兄の居ない時などは存分に占拠していたが。しかし特注の机を兄が使用したのはわずか一、二年に過ぎず、後はアッサリわたしのものとなってしまうのだ。
 義父との折り合いが悪く、兄は家を出ることになるのである。母は青くなった。
 病弱で定職を持たない二度目の亭主が、あれこれ訳の解らない家内業的仕事で得る細々とした収入より、次男の原稿料を頼りにしていた母は必死に止めたが無駄であった。
 自活出来る力さえつけば、この家を出て行くのは当然なのである。何処までも果てしなく続いていきそうな貧乏が全然気にならないといえば嘘になるが、もしどう頑張ってもそういう状況が好転しないのなら、それはそれで構いはしないのである。
 どうにもならないのは、激しやすい性格の母と、癇の強さにどこか狂心的な面が窺える義父との間に演じられる大立ち回りであった。何かが可笑しくてワッと笑い合っていた十分後に、たちまち凄まじい阿鼻叫喚が始まるのである。
 これがたまらないのだ。
 そういう展開があまり頻繁にあると、二人の間には何か定期的にそうしなければならない約束事でもあるのではないかといった疑問が生じるばかりで、どちらにどういう利があろうと、決して同情も憐憫も湧きはしない。
 呆れ果ててジッと眺めていると、こうした夫婦はどこまでいってもとことんだめなのだと思うしかなくなってくる。
 だから、兄が家を出て行こうとした原因を正確に探るなら、義父との不仲の他に、余りにも喜怒哀楽の激しい直情型の母の性格に対する嫌悪感というものも恐らく含まれていた筈なのである。
 結局兄は原稿料の一部を家に入れるという約束を条件に引っ越して行ったのだが、何故惜しげも泣く簡単に机を手放したのか理由はサッパリ解らなかった。もしかしたら、どこかに使いにくさを感じていて、特に愛着などなかったのかも知れない。
 わたしは拍子抜けの気分でボンヤリそう考えた。
 兄についてわたしがある程度のことを語れるとしたら、せいぜいそこいらあたりまでである。その後は、点としてならともかく、線として知るところはまるでない。
 やがてわたしは中学を卒業し、家から歩いて十五分程の距離にある血液銀行に就職する。その時にはすでに長兄も家を逃れていて居ない。
 二人の兄がそうしてきたように、今度はわたしが家計の一端を担う番であった。




血液銀行には、自分の血を売って一日か二日を食いつなごうとする人々が、くる日も、くる日も、受付の窓口に長い行列を作った。
 この会社で、一度辞めてまた勤め、都合十年、わたしはこのトコトン放埓で、陽気で、粗々しい行列を見続けることになるのである。
 中卒の新入りに与えられた仕事は、使用済採血器具の洗浄と再生といったところが主な部分で、昼間、わたしは文字通り“血まみれ”となって働き、夜は部屋に閉じこもって、兄の置いていった机にへばりつき、コツコツ漫画を描いていた。まるで兄の跡をソックリ引き継いだような生活である。
 以前より回数は減ったが、それでも時々、母と義父は元気いっぱいに掴み合いを演じた。
 漫画界は“劇画ブーム”で空前の活況を呈し、数多くのダークカバーの劇画誌が貸本屋の棚を圧していた。
 西部劇でよく見るゴールドラッシュのような状況の中で、若木書房の「迷路」のスタートは少し遅めだったように思える。
 多分、猫も杓子もといったデタラメな喧騒への反発と、安易に「模倣」や「便乗」をしたくないといったプライドがあって、慎重にならざるを得なかったのではないか。しかし、作者が一人の単行本が売れなくなりつつあっては、そうとばかりもいっていられなかったようである。
 「迷路」の編集を任された兄は、独断か推薦か解らないが、わたしをメンバーの一人に加えてくれた。
 兄には以前引越し先へ遊びに行った際、一度だけ原稿を見て貰ったことがあるのだ。(まあ、なんとかなるだろう・・・・・・)恐らく迷いに迷ってそう判断をつけたに違いない。
 わたしは漫画家になることにし、即、会社を辞めた。
 八頁のショートミステリーを二本、わずか十六頁を描くだけで、会社で貰っていた給料を少し上回るのである。前途がパッと輝き、気分良く毎号描き続けた。が、「迷路」の売れ行きは芳しくなかったようである。
 花形スターの不在と、本格的ミステリーコミック誌を目指すあまり、内容が地味に傾きすぎたのだ。号数を重ねるにつれ、不振はさらにひどくなる。
 編集の担当をしている以上、なんとかしなければと考えたのであろう、兄は毎号人気劇画家の中編作品を巻頭に起用する方針を打ち出す。そうすると、頁数の関係で誰かがハミでることになる。
 兄は口ごもりながら、それをわたしに告げた。
 それは仕方のない処置だったと思う。わたしは余りにも絵が下手すぎたのだ。今のように“ヘタウマ”などといった評価のない頃だったから、しょせんゴマカシは効かない。兄の庇護がなければ、とうに首になっていた筈なのである。ま、やり直し、やり直しとばかり再びわたしは血液銀行へ戻っていった。
 結局、その後も「迷路」の形勢は好転せず、誌名も「一発」などといった、なんだか非常にヤケクソなものに変わり、やがて消滅した。それを境に、兄は次第に漫画を描かなくなっていったと記憶しているのだが、間違いであろうか。いずれにしろ、深い霧の中を、ある期間、兄は彷徨うことになるのである。
 わたしは断続的な漫画描きである。
 工員や板前の見習いや、金物店の店員などの、合い間合い間の漫画家である。そういう態勢が、兄・義春の動向に左右されていることはいうまでもない。
 或る漫画誌で兄が仕事をすれば、その口添えによってこちらにもオハチが回り、庇護者が休んでしまえば、わたしもまた別の何者かに変わるだけのことだ。
 「迷路」に始まって、「忍風」「ガロ」「ばく」、どれも皆その通りであった。どこまでも他力本願的な在り方を潔しとせずといった気持ちなどわたしにはなく、漫画界をでたり入ったりするたび、例の机はきれいになったり、ホコリを被ったりしている。
 結婚して、千葉の流山に移り住んでから現在まで、わたしは四、五度住居を変えたが、その間に一度机を兄に返したことがあった。
 十五、六年前、わたしはカミさんと共に商売を始める決心をつけ、通いでは何かと不便と店の二階に住むと算段をした為、それまで居た処が空家になった。わたしはわたしの転身を一応兄にも知って貰おうと電話をかけた折り、そういう事情までも話した。
 (そうか・・・・・・)と、兄は少し考え、
 (流山に住んでみるのも面白いかな)、ポツリそうつぶやいた。
 わたしは兄一家がやって来る日までに、すっかり荷物を移したが、机だけはそのままにした。
 ほぼ二十年ぶりに、返した方も返された方も無言であった。
 お互いどことなくテレ臭かったのかも知れない。
 兄がその家で暮らしたのは、わずか一年ばかりであったろうか。訪ねてくる知人は居ないし、わたしも直ぐ近くに住んでいながら、店の仕事に追われメッタに顔をださなかった。
 毎日のように自転車を乗り回していたが、退屈でもあり淋しくもあったに違いない。兄はまた、元居た調布へ戻ることになった。
 (じゃあね、たまに遊びにおいでよ)
 引越しの日、兄は店に寄り、そう挨拶して去っていった。
 翌日、なんとなく空家へ行ってみると、きれいに掃除された部屋のひとつに、机だけがポツンとあった。
 なにもいわず、兄はまたそれを残して行ったのである。
 ガランとした部屋の中に、しばらくの間わたしはボンヤリ佇んでいた。
 所有者のハッキリしない机は今、我が家の空室の隅でホコリを被ったままである・・・・・・。

1992年文化の森刊『つげ義春初期単行本集』より全文掲載